S氏の日常(文学、ショート)

S氏の日常(文学、ショート)

テーマ*懐かしさ、暖かさ、青春

起章
 S氏にとっての友人とは、時々に、折々に、付き合うものの、それぞれが過ぎ去ってしまう存在なのだ。若い頃のその中の一人に「錦ちゃん」がいる。当時、歌舞伎役者で映画俳優でもあった萬屋錦之介、元中村錦之助の「錦ちゃん」である。ユーモアを解する先輩が中村錦之助に似ても似つかないが、姓が同じであることもあって名付けたのである。
 彼は背は高くなく筋骨粒粒でがっしりしていて柔道三段であった。彼とS氏は柔道の練習をしたことはないのだが、背負いを得意とすることは何となく、S氏には判っていた。
 
承章
 彼の母親は宝塚に住んでいた筈だ。彼の家庭環境については、その事しかS氏は知らないのだ。そして、彼とは柔道もしていないのであるから、付き合いは1年ぐらいのものであったに違いない。
 彼を時には思い出すのだが、何もかも、過ぎ去っていて、懐かしく、暖かく、青春であったな、とS氏は彼のことを思い出しているのだ。
 そして、S氏にとっては若い頃の、極、短い期間の付き合いないのに、時には懐かしく思い出すのは何故だろう、と思うのだ。そして、また、不思議なことでもある。
気が合っていたのであろうか。S氏と同様に彼も寡黙であった。S氏も彼も場所が違う会社の独身寮に入っていて、彼の寮近くの、駅前の、クールと言う喫茶店に誘われてS氏はよく行った。

転章
 職場からの帰り道は同じであったのだ。そうだ、とS氏は、思い出したのだ。クールと言う喫茶店は髭面で彫刻家のマスターがやっていて、店を娘が手伝っていたのである。小さな娘で痩せていて特に美人でもなく普通の女の子なのに、錦ちゃんはどうやら好きなようであった。
 店にその女の子が顔を出さなくなった頃から錦ちゃんは、急に、北海道やブラジルに行きたい、と言い出したのである。S氏は北海道やブラジル行きがその娘の存在と関係があったとの明確な認識は、当時、無かったのである。
 今、錦ちゃんのことを書いていて、Sは髭面のマスターの言葉を思い出し、さらに、その言葉に関連して、そうかもしれない、と気づいたのである。
 マスターは、今はそんなロマンチズムの時代ではない、と彼に云ったのである。それで、S氏はやっと彼女が結婚してしまったのだ、と気づいたのである。確かに失恋したからと言って遠くに行きたいなどと言うのはある意味でロマンチズムなのかもしれないのだ。

結章
 ロマンチストの錦ちゃんは、とうとう会社を辞めてしまい、S氏との二人の交際は、暫く、途切れていたのであるが、ある日曜日にS氏の寮の部屋に突然訪れ、北海道から帰った、とS氏は告げられたのである。そういえば、顔も日焼けしていて、牧草の匂いらしきものにもS氏は納得したのだった。
 彼は、ブラジルに行きたい、と告げ、私の持っていたソニーのリールが二つ付いたテープレコーダーを持ち出したのであった。ポルトガル語を習うつもりだな、とS氏は機嫌よく貸し出したのである。
 それ以来、彼は音信不通で消え去ったが、その後、S氏は喫茶店に立ち寄り、ほっと一息入れているときに、時にはどうしているのだろう、と錦ちゃんの四角い顔とがっしりした胸幅とを思い出すのである。

 (おわり)

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